漫画やアニメで大人気の中国史作品を見ていると、ふとキングダムと三国志どっちが古いのか疑問に思うことはありませんか。どちらも魅力的な武将たちが活躍する物語ですが、始皇帝と三国志はどっちが先で、具体的にどれくらいの時代の違いや繋がりがあるのか、意外と整理できていない方も多いかもしれません。
私自身も最初はごっちゃになっていて、キングダムと三国志の年表や時系列を調べてようやく納得した経験があります。この記事では、両作品の時代背景にある相関図や、気になる子孫のエピソード、さらには当時の日本がどうなっていたのかまで、わかりやすく解説していきます。
・始皇帝が築いた中華統一のシステムが三国志へどう繋がるか
・信などの子孫が三国志の時代にも関係しているのかという謎
・中国史の裏側で進行していた当時の日本の文明レベル
キングダムと三国志どっちが古い?歴史を解説

イメージ:声優アニメふぁんらぼ
まずは一番の疑問である「時代」について、歴史の流れを整理しながら解説していきます。二つの物語の間には、実は私たちが想像している以上に長い年月と、壮大なドラマが挟まっているのです。
始皇帝と三国志はどっちが先か解説
漫画の連載開始時期やゲームの知名度で言うと「三国志」の方が昔からあるため、歴史としても三国志の方が古いと勘違いしてしまうことがよくあります。しかし、実際の歴史の順番は、「キングダム(春秋戦国時代)」の方が圧倒的に先です。
結論としては、キングダムの時代が終わってから、約400年〜500年後に三国志の時代がやってくるという流れになります。
この関係性を現代の企業に例えると非常に分かりやすくなります。キングダムの主人公である政(始皇帝)は、バラバラだった中小企業を合併して、初めて「中華帝国」という名の巨大グループ企業を立ち上げた「創業者」です。
一方で、三国志の曹操や劉備たちは、その巨大企業が数百年続いて経営が傾いた時に、「次は俺が社長になる!」と争っている「後継者候補たち」と言えます。
つまり、キングダムの政が「家」を建てなければ、三国志の英雄たちがその家を奪い合うこともできなかったわけです。
ここがポイント!
歴史のタイムラインは「キングダム(始皇帝) ⇒ 三国志(劉備・曹操)」の順で絶対です。キングダムは「統一国家の誕生」、三国志は「統一国家の再編」を描いています。
キングダムの時代は何年前ですか?
では、キングダムの時代は今から具体的に何年前の出来事なのでしょうか。数字で確認してみると、そのあまりの古さに驚かされます。
キングダムの物語の核となる秦王・政が即位したのは、紀元前247年です。今(21世紀)から数えると、なんと約2270年以上前という途方もない昔の話になります。これは西洋史で見ても、まだローマ帝国すら成立しておらず、ハンニバルが活躍するポエニ戦争よりも前の時代です。
一方で、三国志の物語が始まるきっかけとなる「黄巾の乱」は西暦184年です。ここで注目したいのが、この二つの物語の間にある「空白期間」です。
計算してみると、キングダムの開始から三国志の開始までには、約430年もの時間が流れています。400年という月日がどれくらい長いか、日本史で例えてみましょう。
400年の長さの感覚
日本で言うと、「徳川家康が江戸幕府を開いた頃(1600年)」から「現代(2020年代)」までの期間とほぼ同じです。つまり、キングダムの信から見た三国志の劉備たちは、私たちから見た「戦国武将」くらい遠い未来の存在ということになります。
こうして比較すると、キングダムと三国志は「ちょっと前の時代」どころか、文明や文化が大きく変わるほどの長い隔たりがあることが分かりますね。
キングダムと三国志の年表と時系列

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「キングダム(秦)」と「三国志」の間にある約400年という空白期間。この間に一体何が起きていたのか、時系列を整理すると二つの作品の繋がりが驚くほどスッキリ理解できます。
単に「昔の話」とひとくくりにするのではなく、歴史の大きな流れ(タイムライン)の中で捉えてみましょう。実は、この二つの物語の間には、もう一つ別の大きなドラマ(項羽と劉邦の戦いなど)が挟まっているのです。
| 年代(目安) | 時代区分 | 物語・出来事の位置づけ |
|---|---|---|
| 紀元前770年〜 | 春秋戦国時代 | 【キングダムの舞台】 500年続いた大乱世。秦・趙・魏などの七国が争う。 信や政が中華統一を目指して戦っている最中。 |
| 紀元前221年 | 秦(しん) | 始皇帝(政)による初の中華統一 キングダムのゴール地点。史上初の統一帝国が完成。 |
| 紀元前206年〜 | 前漢(ぜんかん) | 【項羽と劉邦の戦い】 秦がわずか15年で滅亡。その後、漢の高祖(劉邦)が再び中華を統一。 ここから約400年続く「漢帝国」がスタート。 |
| 西暦25年〜 | 後漢(ごかん) | 一度途絶えた漢王朝が復活。平和な時代が長く続くが、徐々に腐敗が進行していく。 |
| 西暦184年〜 | 三国時代 | 【三国志の舞台】 腐敗した漢王朝に対して「黄巾の乱」が勃発。 乱世に戻り、魏・呉・蜀の英雄たちが覇を競う。 |
こうして見ると、キングダム(秦)と三国志の間には、「漢(かん)」という巨大な王朝がドカンと居座っているのが分かりますね。この漢王朝があまりにも長く続いたため、キングダムの時代の記憶は、三国志の時代の人々にとっては「伝説上の昔話」レベルになっていたわけです。
「項羽と劉邦」を知っていますか?
キングダムと三国志の間にある「秦の滅亡〜漢の成立」を描いたのが、有名な『項羽と劉邦』の物語です。「四面楚歌」などの言葉が生まれたのもこの時。もし歴史ドラマを順番に見るなら、「キングダム」→「項羽と劉邦」→「三国志」の順で見ると、中国史の黄金リレーを完璧に楽しめますよ。
三国志に至る中華統一の順番
歴史の流れを、権力という「バトンのリレー」として見ると、非常にドラマチックな構造が見えてきます。三国志の英雄たちが何を目指していたのか、その根源はキングダムの時代にあります。
- 【第1走者】最初の統一(キングダム):
バラバラだった中国大陸を、始皇帝(政)が初めて強引に一つにまとめ上げました。ここで初めて「皇帝」という絶対的なシステムや、統一された文字・貨幣が生まれます。いわば「ゼロからイチを作った革命」です。 - 【第2走者】漢による継承と安定:
秦自体は厳しすぎてすぐに潰れましたが、始皇帝が作ったシステム自体は非常に優秀でした。それをそのまま受け継いだ「漢」が、微調整しながら400年間支配しました。この期間に「中華民族=漢民族」という意識が定着します。 - 【第3走者】再統一への争奪戦(三国志):
その巨大なシステム(漢)が老朽化してボロボロになり、次の「皇帝」の座を誰が継ぐのかで揉めたのが三国志です。曹操も劉備も、基本的には「始皇帝が作ったシステムを、自分こそが正しく継承するんだ」と主張して戦っていました。
つまり、三国志の武将たちが血眼になって奪い合っていた「玉璽(ハンコ)」や「皇帝の座」は、元を正せばキングダムの政(始皇帝)が作り上げた「中華統一」という夢の続きだったと言えます。
始皇帝がいなければ「皇帝」という概念すらなく、三国志の英雄たちの野望も存在しなかったかもしれません。そう考えると、キングダムの政の功績がいかに偉大だったかが分かりますね。
キングダムの時代と三国志の違い
「キングダム(春秋戦国)」と「三国志」の間には約400年もの開きがあります。これだけ時間が経てば、当然ながらテクノロジーや文化、そして戦い方も大きく進化しています。
漫画やドラマを見比べる際、この「違い」を知っていると、「あ、この装備はキングダムの時代にはなかったやつだ!」といったマニアックな楽しみ方ができるようになりますよ。主な違いを比較表にまとめてみました。
| 比較項目 | キングダム(春秋戦国) | 三国志(後漢末〜三国) |
|---|---|---|
| 戦場の主役 | 戦車(馬が引く車) 歩兵の密集陣形が基本 |
騎馬隊(騎兵) 機動力重視の戦いへ |
| 文字・書物 | 木簡・竹簡 木の板に書くため重くて嵩張る |
紙(普及し始め) 軽くて持ち運びやすい |
| 武器の素材 | 青銅器がメイン (鉄器が普及し始めた頃) |
鍛えられた鉄製武器が主流 |
| 戦争の規模 | 国vs国の総力戦 動員数は数十万規模と巨大 |
内戦・局地戦 人口激減により規模は縮小傾向 |
1. 「戦車」から「騎馬」への進化
キングダムの戦場でよく見かける、馬が引く戦車(チャリオット)。あれは当時の最強兵器でしたが、小回りが利かず、山岳地帯では使いにくいという弱点がありました。
三国志の時代になると、馬具(鞍や手綱など)が進化し、兵士が馬に直接乗って戦う「騎馬隊」が完全に主役になります。キングダムでは「騎馬民族特有の戦法」扱いだったものが、三国志では「当たり前の戦術」になっているのです。
2. 「木」から「紙」への革命
地味ですが大きな違いが「紙」の存在です。キングダムの時代、李牧や昌平君が読んでいるのは、竹や木を紐で束ねた「木簡(もっかん)」です。これはめちゃくちゃ重いので、本を運ぶだけで馬車が必要でした。
しかし、三国志の少し前の時代(後漢)に、蔡倫(さいりん)という人物が製紙法を改良しました。これにより、孔明などの軍師たちは、より軽く、より多くの情報を手元に置くことができるようになったのです。
実はキングダムの方が兵士が多い?
三国志の方が時代は新しいですが、動員兵数はキングダム(戦国時代)の方が多い傾向にあります。これは、三国志の時代があまりに過酷な乱世だったため、飢饉や疫病で中国の人口が激減してしまったからです。「赤壁の戦い」のような大決戦は別として、基本的にはキングダム時代の方が「人口爆発&総力戦」のパワーを感じられるかもしれません。
キングダムと三国志どっちが古いかキャラで見る

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歴史の教科書的な話だけでなく、ここからはキャラクターや相関図に焦点を当てて、二つの作品の深いつながりを見ていきましょう。歴史ファンならではの「ニヤリとできる視点」で考察します。
キングダムと三国志の繋がり
前述の通り、時代が400年も離れているため、信や政が三国志の武将と直接会話することはありません。しかし、歴史の舞台装置や重要アイテムを通して、二つの物語はガッチリと繋がっています。「ここはキングダムであのキャラが立っていた場所だ!」と気づくと、胸が熱くなること間違いなしです。
1. 鉄壁の要塞「函谷関(かんこくかん)」
キングダム最大の見せ場の一つ、合従軍編。秦国の存亡をかけて王翦や桓騎らが守り抜いた、あの巨大な国門「函谷関」を覚えていますか?
実はこの函谷関、400年後の三国志の時代にも、依然として中華で最も重要な防衛拠点として登場します。三国志の時代には、曹操軍と馬超・韓遂連合軍が激突する「潼関(どうかん)の戦い」などの舞台となります(※地理的には函谷関の近くに潼関が作られ、機能が移っていますが、要害としての役割は同じです)。
「王騎将軍が守ろうとした国を、数百年後に曹操が通ろうとしている」と想像すると、歴史の重みを感じずにはいられません。
2. 始皇帝が作った「玉璽(ぎょくじ)」の数奇な運命
これが最もロマンのある繋がりです。三国志の序盤、孫堅が焼け落ちた洛陽の井戸から拾い上げ、物語を大きく動かすことになる「伝国璽(でんこくじ)」という皇帝のハンコ。
実はこれ、始皇帝(政)が中華統一の証として作らせたものそのものなんです。
さらに深く掘り下げると、この玉璽の素材となったのは「和氏の璧(かしのへき)」という最高級の宝石です。キングダムの作中でも、趙国から秦国へ渡る至宝として描かれることがあります。
「政が手にし、刻印させたハンコを、400年後に孫堅が拾い、袁術が目をくらませる」……まさに、キングダムの情熱が三国志の争いの火種になっているのです。
三国志とキングダムの武将相関図
「キングダムのこのキャラ、三国志で言うと誰っぽい?」というのは、ファンの間で必ず盛り上がる話題です。性格、ポジション、そして生き様。公式な設定ではありませんが、私なりの「勝手に相関図」をご紹介します。これをイメージすると、三国志のキャラクターが一気に親しみやすくなりますよ。
| キングダム | 似ている三国志武将 | 共通点・シンクロ率 |
|---|---|---|
| 王騎(おうき) | 関羽(かんう) | 【武神のカリスマ】 特徴的な長い髭、巨大な矛(薙刀)、そして敵味方問わず畏敬される圧倒的な武の象徴。最期の散り際の美しさまで似ています。 |
| 李牧(りぼく) | 諸葛亮(しょかつりょう) | 【悲劇の天才宰相】 滅びゆく国(趙/蜀)を、その知略だけで支え続ける孤高の存在。強大な帝国(秦/魏)を相手に、奇策で何度も翻弄する姿が重なります。 |
| 龐煖(ほうけん) | 呂布(りょふ) | 【最強の個】 「我、武神なり」と個人の武力を極める姿は、三国志最強の武将・呂布そのもの。組織に馴染めず、ただ強さだけを求めて戦場を彷徨う災害のような存在です。 |
| 信(しん) | 劉備 + 張飛 | 【夢と武力】 下僕から大将軍へ駆け上がるサクセスストーリーと人を惹きつける人徳は「劉備」。考えるより先に体が動く猪突猛進な武力は「張飛」。この二人を足して二で割ったような主人公です。 |
補足:政(せい)は誰に似ている?
始皇帝である政は、三国志の英雄「曹操(そうそう)」と比較されることが多いです。冷徹なまでの合理主義者でありながら、中華統一という巨大なビジョンを持ち、才能ある人材を愛する姿。まさに「覇王」としての資質が共通しています。
キングダムと三国志の子孫と関係
ここが歴史ロマンの一番の醍醐味であり、多くのファンが驚く「衝撃の事実」です。時代は400年も離れていますが、実はキングダムの英雄たちの血(DNA)は、三国志の時代にも脈々と受け継がれています。
「キングダムのあのキャラの子孫が、三国志のあのキャラ!?」という繋がりを知ると、物語を見る目が180度変わること間違いなしです。
1. 主人公・信(李信)の血筋は「皇帝」になる!?
我らが主人公、飛信隊の信(李信)。彼はキングダムの作中で「天下の大将軍」を目指していますが、彼の子孫たちはとんでもない出世を遂げます。
歴史書『史記』などによると、信の家系は「隴西李氏(ろうせいりし)」という名門一族として発展します。
- 前漢時代(キングダムの少し後):
信の子孫に「李広(りこう)」という名将が現れます。彼は「飛将軍」と呼ばれ、異民族から恐れられるほどの強さを誇りました。「飛」信隊の信の子孫が「飛」将軍と呼ばれるなんて、出来すぎたドラマのようですよね。 - 三国志の時代:
李カク(董卓の部下)などが同姓ですが、李氏一族は各地で武門として活躍し続けます。 - その後の時代(唐):
ここが最大のスゴい点です。さらに数百年後の「唐王朝(とう)」の皇帝たちは、なんと「自分たちの先祖は李信(信)や李広だ」と称しているのです。つまり、信の血筋は最終的に中華の頂点である「皇帝」にまで登り詰めたことになります。
2. 王翦(王氏)の一族は「三国志の黒幕」へ
秦国最強の将軍の一人、王翦(おうせん)。彼の一族である「王氏」もまた、三国志の時代に超エリート名門一族「太原王氏(たいげんおうし)」として君臨しています。
三国志の序盤、暴君・董卓を倒すために「連環の計」を仕掛け、絶世の美女・貂蝉(ちょうせん)を使って呂布を操った「王允(おういん)」という人物がいます。実は彼も、この王氏の流れを汲む名門出身です。
「王翦が武力で国を作ったのに対し、その子孫(王允)は知略で国を救おうとした」と考えると、王一族の底知れぬ実力を感じずにはいられません。
羌瘣(きょうかい)の子孫は?
残念ながら羌瘣に関しては、史実での記録が極めて少ないため、明確な子孫の記録は残っていません。しかし、三国志の時代に「姜維(きょうい)」という蜀の将軍がいますが、彼は「姜氏」であり、羌瘣(羌氏)とは漢字が違うため、直接の関係はないとされています。
三国志で一番イケメンなのは誰ですか?
少し脱線しますが、検索でも非常によく聞かれるこの話題。キングダムには蒙恬(もうてん)や桓騎(かんき)のようなイケメンが多いですが、三国志も負けていません。「公式記録でイケメンと書かれている」レベルの美男子たちがゴロゴロいます。
1. 公式認定のミスター・パーフェクト「周瑜(しゅうゆ)」
三国志で「一番のイケメン」を聞かれたら、歴史通ならまずこの名前を挙げます。呉の軍師・司令官である周瑜です。
彼は史実の記録にわざわざ「容貌秀麗だった」と書かれており、当時の人々から「美周郎(びしゅうろう=イケメンの周さん)」というあだ名で呼ばれていました。それだけでなく、音楽の才能もプロ級で、奥さんは絶世の美女姉妹「二喬」の一人である小喬。「顔よし、頭よし、家柄よし、妻よし」と、天が二物も三物も与えた完全無欠のイケメンです。
キングダムで例えるなら、蒙恬(もうてん)のような「名家の御曹司で、実力もあって華がある」ポジションに一番近いでしょう。
2. 誰もが憧れる爽やかヒーロー「趙雲(ちょううん)」
現代の人気投票で常にトップクラスなのが、蜀の将軍・趙雲です。
彼は「身長が高く、威風堂々とした姿」と記録されており、性格も誠実で忠義に厚いという、まさにヒーローの鏡。主君の子供(阿斗)を抱えて敵陣を単騎で突破するエピソードは、全三国志ファンが惚れる名シーンです。
キングダムの信(しん)の武力と、壁(へき)のような実直さを兼ね備えた、誰もが応援したくなる「好漢」と言えます。
| 名前(所属) | イケメンタイプ | キングダムで言うと? |
|---|---|---|
| 周瑜(呉) | 才色兼備の貴公子タイプ | 蒙恬(もうてん) |
| 趙雲(蜀) | 強くて誠実な護衛騎士タイプ | 信 + 昌文君の忠誠心 |
| 諸葛亮(蜀) | 長身痩躯のクールな知性派 | 李牧(りぼく) |
| 荀彧(魏) | 香を焚きしめる儚げな美青年 | 該当者なし(唯一無二!) |
キングダムの時代の日本はどうだった
最後に、視点を少し変えて「世界の中での日本の立ち位置」を確認してみましょう。中国大陸では数十万人の兵士が激突し、高度な法治国家が運営されていたその頃、私たちの住む日本列島は一体どのような状態だったのでしょうか。
結論から言うと、当時の日本と中国には数百年から一千年近い「文明レベルの差」がありました。
キングダム時代:日本は「ムラ社会」の夜明け前
キングダムの時代(紀元前3世紀頃)、日本は「弥生時代(やよいじだい)」の初期にあたると考えられています。
縄文時代から弥生時代へと切り替わり、ようやく大陸から伝わった「稲作」が定着し始めた頃です。人々はまだ「国」というよりは小さな「集落(ムラ)」を作り、竪穴式住居に住んでいました。もちろん、文字もまだありません。
中国では始皇帝が万里の長城を建設し、巨大な宮殿で政治を行っていたのと比較すると、当時の文明格差には驚かされます。「王騎将軍が巨大な矛を振るっていた頃、日本人は石包丁で稲を刈っていた」とイメージすると、そのギャップが分かりやすいですね。
始皇帝と日本の意外な関係「徐福伝説」
実は、キングダムの政(始皇帝)と日本には深い関わりがあるという伝説があります。始皇帝は不老不死を夢見て、部下の「徐福(じょふく)」に霊薬を探しに行かせました。伝説によると、徐福は数千人を引き連れて東の海へ出航し、そのまま日本にたどり着いて定住したと言われています。
もしこれが本当なら、日本の弥生文化を一気に発展させたのは、元をたどればキングダムの政の命令だったのかもしれません。ロマンがありますよね。
三国志時代:日本がついに「国際社会」へデビュー
そこから約400年が経過し、三国志の時代(西暦3世紀頃)になると、日本も大きく進化しています。そう、歴史の教科書でおなじみの「卑弥呼(ひみこ)」が登場する時代です。
この頃の日本は「倭国(わこく)」と呼ばれ、邪馬台国の女王・卑弥呼が、三国志の「魏(曹操が作った国)」へ使いを送っています。当時の魏の皇帝(曹操の孫など)から「親魏倭王(しんぎわおう)」という金印をもらっていることからも、日本が正式に中国の歴史書(魏志倭人伝)に登場し、外交を行えるレベルまで発展していたことが分かります。
| 時代・作品 | 中国の様子 | 日本の様子(文明レベル) |
|---|---|---|
| キングダム (紀元前3世紀) |
高度な統一帝国 貨幣経済、法律、漢字、鉄製武器が普及。 |
弥生時代 初期 稲作開始。文字なし。小さなムラが点在。 |
| 三国志 (西暦3世紀) |
帝国の再編・戦乱 紙が普及し始め、文化・文学も発展。 |
弥生時代 後期 邪馬台国(連合国家)が成立。 魏へ外交使節を送る。 |
キングダムと三国志どっちが古いか総括
ここまで、年表や相関図、そして当時の日本との比較を交えて解説してきましたが、いかがでしたでしょうか。
改めて、今回のメインテーマである「どっちが古い?」の結論をまとめます。
まとめ:歴史の順番
- 間違いなく「キングダム(始皇帝)」が先です。
- その約400年〜500年後に「三国志(劉備・曹操)」の時代が来ます。
- キングダムで作られた「中華統一」のバトンを、三国志の英雄たちが奪い合っています。
始皇帝が作った「皇帝」という偉大なシステムと、それを400年間守り続けた漢王朝があったからこそ、後の三国志の英雄たちがそれを奪い合う熱いドラマが生まれました。
「政(始皇帝)が苦労して建てた巨大な家を、400年後に曹操や劉備たちが取り合っているんだな」……そう思いながら二つの作品を見比べてみると、今までとは違った深みが見えてくるはずです。ぜひ、この壮大な時系列を頭に入れて、キングダムと三国志、両方の世界を存分に楽しんでください!

